グラフは、福島第1原発正門付近の空間線量を時系列表示したものですが、最大の跳ね上がりを見せているのが3月15日午前0時の付近、その部分の説明として、「2号機のドライベント」、とあります。
確認のために去年の3月の情報をチェックしてみました。産経新聞の2011年3月21日付けの記事によると、東電は2号機のドライベントを3月16日から17日の間に行った、としていたものの、21日に訂正し、ドライベントは3月15日の午前0時から数分行った、とあります。
このドライベントが実際に行われたのかどうか、内閣の事故調査委員会の中間報告で当該部分をさがして見ました。
IV 東京電力福島第一原子力発電所における事故対処 228ページ以降に、2号機の格納容器ベント実施状況が記載されています。231ページ、232ページに、3月15日午前0時前後の対応が次のように記載されています (強調は私です):
⑤ この頃、吉田所長は、2 号機について、D/W 圧力計及びS/C 圧力計の指示値によれば、S/C 圧力がラプチャーディスク作動圧(0.427MPa gage=約0.528MPa abs)よりも低い一方で、D/W 圧力が上昇しているため、D/W 側の原子炉格納容器ベントラインを構成しなければ、D/W の圧力が上昇して原子炉格納容器が破壊されると考えた。もっとも、この点について、実際のS/C 圧力は、S/C 圧力計が指し示す値よりも実際には高かったものの、原子炉格納容器ベントライン(S/C側)にあるS/C ベント弁(AO 弁)の開状態を維持できなかったが故に、ラプチャーディスクが破壊されなかった可能性も十分考えられる。
いずれにせよ、3 月14 日23 時35 分頃、吉田所長は、テレビ会議システムを通じて、本店対策本部とも相談の上、2 号機のD/W ベント弁(AO 弁)小弁の開操作を行い、D/W ベントの実施を決めた。
原子炉格納容器ベントラインは、原子炉格納容器外に出る配管が、それぞれD/W 側とS/C 側に分かれているものの、途中で両配管が合流し、原子炉格納容器ベント弁(MO弁)のある配管を通って排気筒から大気中に排出する構造となっていた(資料Ⅳ-24 参照)。
そのため、D/W側の原子炉格納容器ベントラインを構成するには、この時点で、原子炉格納容器ベント弁(MO弁)が既に開となっていたため、D/W ベント弁(AO弁)の大弁か小弁のいずれかを開とすればよかった。
また、D/W ベントは、S/C ベントと比べ、サプレッションプール内の水を通さずに、放射性物質で汚染された気体を大気中に放出するため、S/C ベントを優先することとされていたが、吉田所長は、D/W 圧力が上昇し原子炉格納容器破壊の危険があるためやむを得ない措置と考え、2 号機のD/W ベントの実施を決断した。
また、本店対策本部も吉田所長と同様の考えであり、異論を唱える者はいなかった。
⑥ 3 月15 日零時過ぎ頃、発電所対策本部復旧班は、1/2 号中央制御室において、2 号機のD/W ベント弁(AO 弁)小弁の電磁弁励磁を実施して開状態とし、2 号機T/B大物搬入口内側に設置していた可搬式コンプレッサーから送られる空気によってAO 弁を開いて、ラプチャーディスクを除く原子炉格納容器ベントライン(D/W 側)を構成した。しかし、その後数分以内にD/W ベント弁(AO 弁)小弁が閉であることが確認された。
その後も、2 号機について、D/W ベント弁(AO 弁)小弁の開操作を実施したが、D/W 圧力計によれば、同日7 時20 分頃に至ってもなお0.730MPa abs を示すなど、D/W 圧力は0.7MPa abs 台を推移し、顕著な圧力低下傾向が認められなかったため、D/W ベント弁(AO 弁)小弁の開状態を維持することはできなかったと推認される。
⑦ 結局、2 号機については、S/C ベント及びD/W ベントの実施を試みたが、これらのベント機能が果たされることはなかったと考えられる。
東大の研究者の論文の記載と政府の事故調査委員会の中間報告のどちらも正しいとすると、「ドライウェルのベント弁小弁を開けてベントラインを構成してベントを試みたものの、数分以内にその弁が閉じていることが確認された、ドライウェルの圧力は低下傾向が認められなかったため、ベント機能は果たされなかった」、と政府事故調査委員会が判断したそのベントによって、原発正門の空間線量が1万2千マイクロシーベルトに跳ね上がったことになります。
論文には、提出されたのが2011年8月22日、さらに12月24日に校正した、と記載があります。政府事故調査委員会が中間報告を発表したのは12月26日ですから、最新の情報が行き違った可能性はあります。また、全くの素人考えですが、「ベント機能は果たされなかった」、と判断されたベントは実は機能しており(つまり、ドライウェルの圧力計が壊れていた)、午前0時以降ベントをするごとに実は放射性物質が放出されていた、という可能性もあるような気がします。
ちなみに、2号機のドライベントの実施を東電が政府や周辺住民に通知したかどうかは不明です。先の産経新聞の記事を見る限り、そもそも日にちを間違って発表していたくらいですから通知はしていないように思われます。もっとも、東電は1号機のベントを3月12日に行った際にも原発の作業員全員に通知をせず、知らずに外で作業していた作業員もいた、という記事がありました。
ドライベントは水を通さないため、水を通すウェットベントでは出ない核種まで放出されます。
上掲のグラフで、「2号機のドライベント」の右側に次に出るピークは4号機の水素爆発の後に現れますが、水素爆発の時刻(午前6時)よりは後のような描き方になっています。ピーク自体には何の説明も付いていません。2号機の圧力抑制室で起きたと思われる何らかの事象(政府、東電は爆発ではない、と言っていますが、では何だったのかについては未だに口をつぐんだままです)によって引き起こされた、とも考えられます。また、引き続き試みていた2号機のドライベント(上記委員会報告書)が実は成功していて、放射性物質が放出していた、という可能性もあるのではないかと思います。(あくまで素人考えです。)
「2号機のドライベント」に次いで大きなピークには、「3号機からの煙」という説明が付いています。3号機から白煙が上がっているのが確認されたのは3月16日の午前8時30分、午前10時40分には原発正門での放射線量が毎時1万マイクロシーベルト(10ミリシーベルト)に跳ね上がった、と2011年3月16日付けの朝日新聞が報じています。
とすると、東北、関東の広範囲にわたって放射性物質を拡散したのは1号機、3号機、4号機の爆発ではなく、2号機のドライベントまたは圧力抑制室の破損、3号機から上がり続けていた煙(3月21日には使用済み燃料プールの上部から黒煙が上がっていました)であった可能性がある、ということなのでしょうか?
それにしても、このグラフを含め、事故初期に計測した放射能測定データ(ネプツニウム239を含む核種検出データ)がピアレビュー誌に掲載されるまで11ヶ月近く表に出てこなかったのは、つくづく残念です。
2号機に限らず、既に核燃料が溶融した状態でのドライ・ベントは、かなりヤバイのじゃないかと想像してます。当初はメルトダウンを否定していましたが、実施にはかなり早い段階でメルトダウンしていたとされていますよね。格納容器内に核燃料が漏れていたとすると、ゲル状の核燃料が飛散したのではないか?排気塔配管10Svもうなずけます。プルトニウムは重いから飛ばないという、意味不明な説明も、飛散したのがゲル状の核燃料なら、あり得る話ではないでしょうか。
ReplyDeleteやばいですね。ゲル状の燃料、というのは面白いですね。あの10シーベルトも、オーバースケールですから実際は一体どれだけ高いのか。燃料がこびりついていれば、10シーベルトなどという生易しいものではないと思います。
ReplyDelete英語ブログの読者には、溶融した燃料がペデスタルに落ちて、そこからダウンカマー(格納容器ドライウェルから圧力抑制室につながっている管)を通じて高圧高温で圧力抑制室に排出されて水蒸気爆発、という説を唱える専門家もいます。
ベントしたおかげで爆発したようなものかも。それにしても、1年経ってるんですが何も分かっていない。