引用されているのは南相馬市大町病院麻酔科の佐藤先生のメッセージ。政府からの支援が何もない南相馬市の病院の厳しい現状が書かれていますが、私が気になったのはこの部分:
2点目の、「自衛隊がパニックとなったために多くの南相馬住民が放射線濃度の高いときに避難する羽目に」というのが、どういう事態だったのか、ご存知の方がいらっしゃったらお知らせください。『そんな中、本日自衛隊による南相馬市の緊急時の避難訓練が行われました。動ける市民をマイクロバスで移動させたり、動けない介護老人をヘリコプターで搬送するというものでした。元々我々医療関係者には連絡はなく、一部の市民や救急隊との合同訓練だったようです。確かに爆発が数時間後と分かる場合は避難がベストですが、多くは突然の爆発です。そんな時は多くの学者は3日間コンクリート製の建物の中に避難する屋内退避の方が被爆が少ないと唱えていますが、1号機の爆発の時に双葉厚生病院の患者が校庭でバスやヘリを待っていて被爆したことは自衛隊の方は知らないのでしょうか。何よりも自衛隊がパニックとなったために多くの南相馬住民が放射線濃度の高いときに避難する羽目になりました。また、医療スタッフをつけずに双葉病院の患者を川内村の高校の体育館に置き去りにした搬送には自衛隊は関与していなかったでしょうか。頼りにされるべき自衛隊がマニュアル無き避難訓練を行ってはいけないのです。政府が安定してきたと言っているこの時期に、なぜ避難訓練を行わなければいけないのかも疑問です。』
いつもありがとうございます。
ReplyDelete2点目につき、朝日新聞デジタルの下記記事からではないかと思います。
ttp://digital.asahi.com/articles/TKY201109100599.html
↓のブログで教えていただきました。
ttp://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/2011/09/post_eafe.html
@donlapin、ありがとうございます。リンクいただいたブログを拝見しましたが、自衛隊があのような装備で被災地に繰り出していたときに、安全だ、なんでもない、と言われていた東北、関東の住民は平気で外に出てましたね。雪の中で子供を連れて給水を待っていたとか。自衛隊まで新潟に逃げたとは知りませんでした。
ReplyDeleteこれで、政府もマスコミも、よく東電を非難できたものです。
何時も拝見させていただいております。
ReplyDelete南相馬市会議委員 大山弘一です。新聞の補足になりますでしょうか。
『・・自衛隊がなぜ動いたか今もわかっていない・』?
自衛隊は1号機爆発以来、第一原発に入り作業をしていたのだそうです。その目の前で3号機がイった 訳です。又、翌日未明に4号機爆発に続く危機的状況を改めて知り さしもの自衛隊とて 総退避となり おそらく数百名残っていた20キロ圏を通り 1万人以上の浪江町、小高区の避難者が身を寄せた 南相馬市に入り この行動になったのです。
『しかし、市民は目の前の光景を信じ・・・』?
双葉地方の避難者には身内の東電に勤めている人が多く 行政側とは異なり 情報と判断が独自になされていました。
それから避難訓練ですが 議会には一切連絡がなく 市民も知らない訓練でした。
おそらく緊急時避難準備区域解除のアリバイとして 執行部が場当たり的に取ったもので
私も「避難計画」のあまりのお粗末さに 6月と9月議会で人命軽視を糾弾し 「作り直し」と 訓練の必要性を言ってきましたが 黙ってやっていたのを後から知り 政権与党の市長もよっぽど切羽詰っている事を感じました。(議会に知らせていれば 必ず調査や突込みが入るので)
とにかく 畳み込んで収束にしたいみえみえの態度ばかりで 大量放出31核種について
市民の署名数千名が集まっても「調査依頼」もしない 人命軽視とモルモット政策には
市民も立ち上がり デモ行進までするも マスコミは一切取り上げられない情報封鎖都市=南相馬市です。
>多くの南相馬住民が放射線濃度の高いときに避難する羽目に」というのが、どういう事態?
ReplyDeletehttp://www.youtube.com/watch?v=x0XTX9XJQlM&feature=related
投稿した本人の佐藤です。大山先生の補足になりますが、自衛隊が南相馬市役所(http://www.youtube.com/watch?v=H6-EDZftsuQ)や病院内に入ってきたのは事実です。政府の発表とは異なった(80km圏外に避難させた外国大使館と同じ)対応でした。当地域は3月14日に屋内退避(3月25日に自主避難)勧告が出ただけで、環境放射線濃度のテロップも流れていなかった3月15日〜21日頃は軍服姿の自衛隊員を見る度に、ただ事ならぬ事態だと不安感を誘う結果となりました。(物資を運んでくれる自衛隊員もいましたが)
ReplyDelete仙台方面に向かう国道6号線はあちこちで寸断され、避難経路は飯舘に向かう県道12号線しかありませんでした。事実かどうか分かりませんが、飯舘との境にある矢木沢峠ではガス欠で動けなくなった車で渋滞となり、峠を越えた車も数日間飯舘村に滞在したため、炊き出しに出た飯舘村民も20日、21日は放射能
の雨を浴びる結果となったのです。
大山市議、佐藤先生、追加情報どうもありがとうございます。当時報道されていた情報とはまるで違いますね。しかしよりによって避難した先が飯舘村方面だったとは。あの避難はいったいどういう指示だったのか、単にとにかく遠くへ行けばよい、ということだったんでしょうか?
ReplyDelete確か当時のNHKで、遠くへ行けば放射線が弱まる、とまるでこれが原子爆弾かのような解説を聞いたおぼえがあるのですが、風下に逃げろ、が正解だったのですから。
佐藤先生、もし先生がブログ、Twitterなどで情報をインターネットで発信なさっているのでしたら、アドレスをお教えいただけないでしょうか?
大山市議のブログは拝見させていただいております。ありがとうございます。
風下に逃げちゃだめでしょ
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