Wednesday, July 13, 2011

英ガーディアン紙:福島原発に日本中から原発ジプシーが集まる

英国ガーディアン紙Justin McCurry、7月13日付け記事 "Fukushima cleanup recruits 'nuclear gypsies' from across Japan" の全訳(リンクは元の英文の記事に行きます)。おおまかな筋で間違いはないと思いますが、急いで訳したもので間違いがあったらごめんなさい。あくまで私訳です。

高給と義務感に惹かれ、何千人もの技術者、作業員が福島へ

太陽がようやく昇り始めたいわき湯本、白いT-シャツと水色の作業ズボンをはいた男たちが目をしばたかせながら、エアコンの効いた快適な部屋から日本の夏の猛烈な湿気の中へと出てくる。

チェルノブイリ事故以来の世界最悪の原子力危機が始まってから四ヶ月、東北の温泉地であるこの町は、ここから30マイル離れた福島第1原発の修復活動に従事するために集まってきた2000人の男たちが滞在する寮となっている。

いわき湯本は企業日本の縮図とも言える。町の新しい住人は、長年の経験を持つ技術者やエンジニア、そして、彼らを支えるのは日本中から高額の賃金に引かれて集まってきた何百人もの労働者である。

そんな一人が、Rune Ariyoshi さん、崇拝するジョー・ストラマーに似せたオールバックの髪ともみ上げの、背の高い、痩せた47歳のトラック運転手である。

週に5日、Runeさんは「原発ジプシー」としての重労働に従事する。「原発ジプシー」とは、作家堀江邦夫氏が日本の原発のもっとも汚れた、もっとも危険な作業に従事する労働者たちに付けた名前である。

業界は、1970年代の原発建設ブーム以来、定期点検、修理などを臨時作業員に頼ってきた。今でも1970年代と同じように、日本社会の一番下層にいる人間は、危険な作業環境で殆ど訓練も経験もないままわずかな賃金で働く。「原発で働くのが危ないなんて、思ったこともない」とRuneさんは記者に語る。日給1万2千円の一日の仕事を終えた後だ。「賃金は自分のやるような作業に見合ってると思う。他でトラックを運転してたときよりは高いからね。」

作業員募集の広告を雑誌で見て、彼は6月の始めに福島にやってきた。彼の73歳の母親は、息子が福島で働いているとは知っているものの、まさか一日の半分を日本史上最悪の原子力事故の起きた場所で過ごしているとはつゆも知らない。

離婚経験の有るRuneさんは、週に2日、休みがとれる。そんなときは福島に隣接した茨城県に住む息子たちに会いに行く。「子供たちにここの仕事のことを話したとき、最初に言われたのは『放射能を浴びないで』だった。子供たちは心配しているが、それでも、ちょっとかっこいいな、とも思っているようだ。」

作業開始後1ヶ月過ぎの被曝量は5ミリシーベルトだ、と彼は言う。世界平均自然放射線被曝量2.4ミリシーベルトの2倍以上である。原子炉建屋内で働く東電のエンジニアたちは年間250ミリシーベルトまでの被曝を許されているが、Runeさんを雇った会社は社員には30ミリシーベルト、Runeさんのような臨時作業員には15ミリシーベルトまでの被曝限度を設定している。

「まあ限度になるまでにあと2ヶ月かな。でも、例外を認めてくれて、もう少し長く働かせてくれるといいなと思うよ」、と彼は言う。

翌朝5時45分、バスは既に待機している。Runeさんはホテルから出てくる。部屋は他の5人の作業員とシェアしている。

これからJ-ビレッジまで45分のバスの旅だ。J-ビレッジはサッカーのトレーニング施設で、ここで一日の作業についての説明を受け、放射線防護服、マスク、ゴーグル、手袋をつけ、常に携帯が義務付けられているガラス箱に入った放射線測定メーターを持つ。

午前8時、2つある90分のシフトの第一番目が始まる。シフトの間には同じような長さの休憩が挟まっている。放射線被曝と暑さのために、仕事は昼を過ぎた頃に終了となる。

Runeさんのおかげで、福島第1原発内の作業状況について、普通知ることの出来ないことが分かった。

最初のシフトを終えて休憩に入るときは、綿の手袋を外してから2番目の部屋へのドアを開ける。その部屋では2つはめたゴム手袋を外し、下着姿になる。3番目の部屋では、放射線のチェックを受ける。OKなら新しいユニフォームと下着を与えられる。同じプロセスが、2番目のシフトの後も繰り返される。

「今は本当に暑いので休憩も多く取らなくてはいけないから、1月までには終わらないと思うよ」、と彼が言うのは、東電が自らに課した、原子炉を安定させる期限のことである。「それでも、進歩はしているよ。汚染水の処理とか。」

彼の所属するチームは25人、原発の6つの原子炉のうち3つがメルトダウンを起した事故当初の混乱の中で、1号機から4号機の周辺にうち捨てられた消防士の制服2万3千着を取り除いて仕舞う作業を行っている。グループの一つが制服を集めるとRuneさんがトラックで運び、もう一つのグループがそれを仕分けして梱包し、処理のために別の場所に移す。

「東電のエンジニアや技術者とは接触がない」、と彼は言う。「うちの会社は6次下請けぐらいだからね。」

記者が話を聞いた誰もが、原子炉の安定冷却、冷温停止を1月までに行う、という期限を東電が守れるとは思っていない。

4月、東電は4月中に放射能漏れを低減させて1月までに冷温停止を実現する、と述べた。しかしこの工程表は、東電が(来週の)火曜日に最新の工程表を発表するときに修正されるものと予想されている。

管直人首相は今週、廃炉のための作業に着手するまでに10年かかるかもしれない、と述べた。

3月11日の大事故の発生後、東電は大手建設会社、保守会社に協力を求めた。これらの会社は更に600社に及ぶ関係会社から作業員を募集した。この600社は、経験、信用の面でそれぞれ差がある。

これからしばらくの間、いわき湯本の町は3つのまったく異なった共同体によって成り立っていることになる。約3万人の住民、2千人の原発作業員、そして福島第1原発付近の町や村から避難してきた千人の人々。

多くの臨時作業員の存在、そして男性の数が圧倒的に多いことが、衛生、安全の規則が守られていないのではないかという危惧につながっている。

レストランの経営者はこぼす。夕方原発から帰ってくる作業員で、まだ現場のユニホームを着て現場で履くブーツまで履いている作業員がいる、と。

町の観光の売り物は温泉と山の景色だったが、原発事故以来観光客がめっきり減った。

「作業員と町の住民の交流はあまりありませんね」、といわき市職員のTakahashi Katsueさんは言う。「旅館のご主人たちは何ヶ月も先まで予約で一杯で喜んでいますが、だんだん不安になってきています。これからどれだけ続くのか。原発周辺から避難してきた人たちもいます。だれもここへ観光旅行に来なくなるのでは。」

Sasaki Toshiyukiさんは北海道の建設会社の従業員、いわき湯本を仮の住まいにする臨時作業員の中では高給取りの部類だ。

彼は通常の月給35万円の2倍をもらって、3号機の前にあるがれきを片付ける作業をしている。放射能飛散を防ぐための巨大な鉄製のシュラウドを建設するための700トンクレーンの到着に向けての準備作業である。

「原子炉建屋に入ることは許可されていません。一日働くのはせいぜい1、2時間」、とSasakiさんは地元のレストランで冷たいビールを飲みながら話す。「被曝量が年間40ミリシーベルトに達したら、やめなくちゃならない。」

Sasakiさんは他の重機運転員と同様、仕事中はクレーンの(運転室の)中や掘削機のキャビンの中で作業をする。危険なまでに放射能の高いがれきを撤去する、唯一の方法だ。

彼はこれまでいくつかの原発の建設に従事してきたが、原発を大災害から救い出した経験はない。それでも、被曝測定値が許す限り、福島で働くつもりだ、と言う。

「みんなものすごく気をつけてますよ」と彼は言う。「線量計がシフトの間に一定のレベルに達したら、現場から出なくてはいけない。でもまだそんなことは起こっていません。」

彼の会社のスタッフがみんな彼のように楽観的なわけではない。会社の従業員の半分は、家族の反対で福島第1原発で働くことを拒否している。

記者に話をしてくれた人々全てが、もっとも差し迫った健康の危険は放射能ではなく、マスク、ゴーグル、防護服を装着して、足首、手首、首をテープで密閉して何時間も過ごすことだ、という。「放射能は別に平気だけど、暑さで具合が悪くなるのが心配だ」と、大阪から来た34歳の男性は言う。「防護服を着るととんでもなく暑い。何人か現場で具合が悪くなった人たちを知っているよ。」

一方、食事は、東電と政府が作業員に十分な食べ物や飲み物を提供していないと非難された最初の頃よりは改善された。昼飯はたいていレトルトパックのカレーライス、ボトルの水とお茶、チューブから吸い出すゼリー状のビタミンサプリメント、それにお菓子のパック。

「でも、休憩時間にゆっくりできるだけの場所はないね。」原発から600マイル離れた九州から福島にやってきたRuneさんは言う。「それでも、前に比べたらトイレの数は増えたし、飲み物も増えたし、リラックス出来る場所も増えた。」

福島の危機が終わったとき、東電のエンジニア、自衛隊、消防隊の面々に栄誉が行くのは当然であろう。津波が襲った後の深刻な放射能漏れ、爆発する原子炉と戦ったのは彼らだ。

だが、Runeさんは、津波の後に残った荒廃を片付けた(彼のような)男たちには、少なくとも公の場では賞賛は殆どないだろう、と思っている。

「自分のような人間は、義務感もあったけれど、ここへ来たのは金を稼ぐためだ」、と彼は言う。「無職だったから来た者もいる。普通の仕事が続かなかったから来た者もいる。今まで、誰もチャンスを与えてくれなかったんだ。」

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